禁断の幕末維新史
以前、「日本人が知っておくべき「この国根幹の重大な歴史」」(加治将一他著)を紹介したが、 今回、さらに深掘りしたく「禁断の幕末維新史」(加治将一著)を読んだので紹介する。自分自身、これはほぼ真実であるとの確信を得ている。
(坂本龍馬暗殺の真犯人は)
尊王攘夷派とは、薩摩藩、長州藩など天皇を尊び、外敵を排斥するグループである。公武合体派は、幕府、孝明天皇など朝廷と幕府(諸藩)が協力して、幕藩体制の再強化を図ろうとするグループである。第3のグループとしての反孝明・南朝崇拝の秘密結社があり、岩倉具視、大久保利通、桂小五郎などにより、南朝天皇へのすり替えが計画された。
武力革命派は、岩倉具視、大久保利通、薩摩藩、長州藩、土佐藩の一部、アーネスト・サトウ、中岡慎太郎、板垣退助であり、無血革命派 坂本龍馬、後藤象二郎、勝海舟、英国パークスである。龍馬暗殺の真相は土佐藩の内ゲバだった。田中光顕は、後日談で「中岡は、剣を持っては龍馬よりはるかに上であった。この目で見ての実感である。」と言っている。
(北朝から南朝へ明治天皇はすり替えられた)
ひ弱な睦仁親王は、天皇になったとたんに武士を相撲で投げた。睦仁親王は右利きだったが、明治天皇は左利きだった。天皇の妻は皇后と呼ばれるが、明治天皇だけは皇太后。睦仁親王の践祚から即位まで1年7ヶ月と長過ぎる。南朝の血筋は幕末まで根強く残っており、根強い南朝崇拝思想が幕末に息を吹き返した。水戸光圀が作らせた「大日本史」は南朝正統論の決定版にあたる。
戊午の密勅は、孝明天皇から水戸藩に下った大老井伊直弼の暗殺指令があり、安政の大獄、桜田門外の変と続く。南朝すり替えの原作者は吉田松陰であり、これと言った功績の乏しい吉田松陰の名前が残っている理由である。明治天皇の権威が増すとともに、明治時代の中後期にかけて長州閥がのし上がっていった。
尊王攘夷から倒幕開国へ、第三の勢力「薩摩+長州+英国」が倒幕に動いた。倒幕の密勅のシナリオは、南朝天皇復活を目指す第三の勢力の元で練られた。倒幕+南朝秘密同盟は、攘夷だけの孝明天皇の排除、公武合体派の粛清のため義弟の徳川家茂を暗殺した。大政奉還で幕府側から権力を奪還するために、鳥羽伏見の戦いで騒乱状態を作り、一気に御所を囲んで南朝天皇にすり替えた。南朝武将を祀る神社の建立と再興、建武の中興15社の建立、南朝の忠臣・楠木正成の騎馬像を皇居に設置。江藤新平の佐賀の乱、西郷隆盛の西南戦争も秘密を知っている者の口封じと見える。
(皇女・和宮のすべては抹殺)
孝明の妹・和宮は、相思相愛といわれた有栖川宮熾仁親王との婚約を破棄し、将軍・家茂との政略結婚に及んだ。和宮の殺害現場は、京都から東京へ向かう途中の箱根山中。明治7年、襲撃され自害。岩倉の企みを示唆している。死の噂をかき消す偽装工作として、南部家の娘が使われたが、偽装工作に関わった人は若死か消息不明になっている。
(出口王仁三郎は有栖川宮のご落胤ゆえに弾圧)
孝明天皇亡き後、天皇になる気満々だった熾仁の子は、北朝の血脈ゆえ王仁三郎は追い込まれていく。
NHK大河ドラマで渋沢栄一が描かれているが、徳川慶喜や岩倉具視の配役をみると、最近の歴史研究の成果が伺える。